Chemchem ya Amani TANZANIA

 

ママ・バトゥリとンジョロ

ママ・バトゥリとその娘たち
ママ・バトゥリとその娘たち
ママ・バトゥリと出会ったのは、今年の1月。
里親支援をしている子供のお母さんたちが、案内してくれました。

ママ・バトゥリは、2006年に旦那さんを亡くしました。
それからは、彼女一人で、市場で果物を売るなどしてお金を稼ぎ、生活をしてきました。
彼女には4人の娘がおり、すでに生活はかなり厳しい状況でした。

そんな彼女が交通事故に遭ったのは去年、2008年の6月でした。
その日から、彼女は全く歩くことが出来なくなりました。
一日中、ベッドの上で暮らす、そんな生活が始まりました。

私たちが彼女たちに出会ったのは、今年の1月。
それまで彼女たちがどう暮らしてきたのかが、まず不思議でした。
彼女たちが生きてこられたのは、「ンジョロ」のお陰でした。

ンジョロは、KODOMOセンターもある地域一帯の名前で、モシ市の中でも、生活水準の低い人々が多く暮らす地域です。
モシには出稼ぎに地方からやってくる人々が多いのですが、観光地であるとはいえ、モシも他の地域同様、仕事を得るのは難しいのです。
ンジョロでは、仕事にあぶれた多くの人々が、日雇いの仕事を見つけては、その日暮らしをしています。

でも、そんな地域だからこそ、ママ・バトゥリたちは生きてこられたのです。
ある人はウガリの粉を分け、ある人はトマトを差し入れし、子供たちは水汲みなど出来ることを手伝います。
子供たちが体調を崩したときは、近所の診療所の看護婦さんが、無料で薬を分けていました。
誰もが厳しい生活をしているにも関わらず、周囲の人々が、出来る範囲で彼女たち一家を支えてきたのです。
それは、彼女たちの傷みが分かるのは、誰よりもンジョロに住む人々だからかもしれません。
そして、彼女たち一家のことを、私たちに紹介しにきたのも、ンジョロに住むママたちでした。

私は改めて、ンジョロという地域に魅力を感じ、ここでの活動に、力を注いでいきたいと思いました。

ママ・バトゥリも、タンガという別の町から出稼ぎに来た人たちのひとりでした。
彼女には、両親も、兄弟も、すでに亡くなっていませんでした。
遠い親戚はいますが、彼女が事故に遭ったときにお見舞いに来たのを最後に、会っていないそうです。
彼女のことは、地区長さんも知っており、市に生活支援の申請を行ったそうですが、今日まで何の支援も受けられていないそうです。役所の仕事がうまく進まないのは、タンザニアの非常に残念な所のひとつです。

もちろん、子供たちの学費も、2,3年分が未納でした。
私たちは、継続的な食事の支援はできませんが、現在小学校に通っている二人の子供たちの学費を支払うことに決めました。
「一家族ひとりの支援」ということに決めていたのですが、ママ・バトゥリの場合は、どう頑張っても働きに行くことは無理なので、特別に二人ともの支援を決めました。
小学校に行けば、少ないとはいえ、給食を食べることが出来ます。
一日一度の食事も得られるか分からない彼女たちにとって、学校に行くことは、勉強と食事の両方を得られる重要なことだと思います。
一日も早く、子供たちが仕事に就き、お母さんを支えてあげられるようになればと思っています。

家庭訪問の際に、2kgのウガリの粉を差し入れました。
「ありがとう」というママ・バトゥリの表情からも、その日の食事も運に任せるしかない、彼女たちの暮らしの現実が見えてきました。
私たちには、出来る支援が限られていますが、出来る限り、彼女たち一家をこれからも応援していきたいと思っています。

  • posted by naomaru さん
  • 2009-4-9 5:31
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